財団創立小史
1945年8月、太平洋戦争終結・日本敗戦後のブラジル日系社会では、敗戦を信じない日系人による敗戦認識派に対するテロ行為も含んだ、大混乱が生じた。宮腰ら認識派は米国総領事館などから日本の新聞などを取り寄せて、地道な認識活動を行うる共に祖国の現状を知り心痛めた。他方、戦勝国、米国では日系人が1946年大戦直後に日本の窮状を救うべく、サンフランシスコ在住の日系人が中心となって、「日本戦災同胞救援会」を組織し、ララ(LaRa)救援物資を送る運動を始めた。(Lara;Licensed Agencies for Relief in Asia)。ブラジルでは 1947年3月にサンパウロの宮腰千葉太氏宅に有志が集まって、この「救援会」が組織され、1950年9月まで継続された。この祖国救済運動には、戦勝派の中からも賛同者が得られ認識派との対立緩和にも役立った。
主な活動はサンパウロ市地方委員会の菅山鷲造委員長を中心にマルガリーダ・渡辺(1996年没)等の有志が救援物資の送り出しに活躍した。サンパウロ州や他州の各地から集まって来る救援物資は 日系のエスぺランサ婦人会の会館やドナ・マルガリーダ宅で纏められ、梱包して当初はアメリカ経由で祖国日本へ送り出された。このため、LaRa物資というと日本人にはアメリカよりの援助というイメージが強いが、ブラジル日系人社会よりも当時の価値で約11億円相当の物資(LaRa合計約51億円)が支援されていた。一方、日本国内では、ブラジルよりのLaRa物資が被災者に正しく配分されているのか疑問が湧き、菅山委員長が日本政府に是正を求めた結果、当時衆議院議長の幣原喜重郎を名誉会長とした外務省管轄の「財団法人日伯経済文化協会」が設立(1949年11月1日正式認可当日理事会、西森久記理事)された。物資の適正配分などの是正に努めるとともにその事実を日本国民に伝達を行った。
国民からもサンパウロへのお礼状などが送られたり、菅山委員長ほか訪日団を幣原は衆議院議長にお招きしたりて、感謝の念を表した。また、当財団は幣原会長がマッカーサー司令官との直接折衝により政府機関の手を経ずに、講和条約締結前から在外邦人への保護や戦後移民再開に向けて活動を行った。移民再開と共に財団は海外渡航促進協議会(海外移住教会)を発足した。1951年4月25日同協議会は社団法人海外移住中央会と改名(石橋山会長)してその後の発展に繋げた。さらには、移住者への農業技術支援あるいは工業技術の支援を行い移住者のブラジル渡航に貢献した。その後、移民法撤廃とともに忘れられて行く、日本戦災同胞救援会の活動ならびに、ブラジル移民史を次世代の語り継ぐ活動を開始した。近年では、在日ブラジル人にも日本人のブラジル移民史や戦災日本を救援した祖先の在伯日系人の歴史を語り継ぐ活動ならびに恩返しの意味も込めて在日ブラジル人への支援活動に繋がっている。さらに、移民史継承事業に加えて草の根での経済文化交流推進事業および日伯(日本・ブラジル)未来人材育成事業が行われている。